院長プロフィール – 新潟市 秋葉区 新津 肩こり 腰痛 整体 鍼灸ならさかつめ整骨院鍼灸院

院長 坂爪 慶 さかつめ けい

院長 坂爪慶

経歴

  • 新潟県立新津高校 卒業
  • 龍谷大学文学部哲学科 卒業
  • 明治東洋医学院専門学校 第一柔整学科卒業
  • 明治東洋医学院専門学校 第二鍼灸学科卒業

資格取得

  • 柔道整復師免許
  • はり師免許
  • きゅう師免許

My Story

誕生から学生時代そして治療家への道

私は現在の新潟市秋葉区(旧新津市)新町に整骨院院長の息子として誕生しました。
幼い時、治療室で患者様や受付のパートさんに遊んでもらった記憶が鮮明に残っています。幼少期は漠然と整骨院を継ぐものかと思っていましたが、地元のカトリック幼稚園、第二小学校、第五中学校と進み、高校の段階では整骨院を継ぐことや、治療家になるなどは全く考えていませんでした。幼少期から高校時代頃まで、絵画やアートが好きでその道に進むことを考えた時期もありました。(現在も好きで良く美術館に行きます)

また、この田舎から出て都会にいきたいという気持ちもあり、高校卒業後浪人を経て京都の龍谷大学に進学、なぜか文学部哲学科。進学段階で私にはアートの才能はないことに気づき、次に世界、日本史問わず歴史に興味があったため歴史(特に美術史)を志しました。史学科のある大学を志望しましたが、史学科はことごとく受験失敗。哲学科に行けば歴史も勉強出来るだろうと、軽い考えで哲学科に入学しました。

後に、この整骨院(鍼灸院)の業界に入った当初はえらい遠回りしたとも感じましたが、現在の「物事の本質を追求する、解明する」という考え方の基盤となることを当時学んでいたことに気づき、大学での学びが私の治療家人生の中で大きく影響したことを今更ながら感じています。

大学卒業を一年後に控えた頃、将来を考えているとふと幼いころ治療室で遊んでいた頃を思い出しました。
それまで私は治療家である父に対してバカにするような言動や、行動をとってきていましたが、その時思い出したのは、患者様から「おかげさまで良くなりました」「ありがとうございます」と感謝の言葉をかけられていた院長、父の姿でした。

その後、帰省した際にたまたま治療室をのぞく機会があり、私の記憶どおり今も患者様によろこばれ、感謝の言葉を受けている父の姿を見ることとなりました。

「こんな風に感謝されながら仕事をする治療家という生き方は素晴らしいな」と感じ、治療家になりたいと初めて思った瞬間でした。

大学まで出してもらったにもかかわらず、さらに専門学校に通うこととなり治療家を目指すことになりましたが、父や母、さらに地元の方も大変喜んでいたのを覚えています。

大阪にある明治東洋医学院専門学校に入学し、ご縁があった淀川区の古東(ことう)整形外科にて見習いとして雇っていただくことになりました。
当時古東整形外科ではリハビリ室に20名以上の柔道整復師、鍼灸師が在籍しており、当然といえば当然ですが、同期入社も含めて柔道整復師、鍼灸師免許を持っていない全くの初心者はごく少数。さらに古東整形外科は大阪でも大変人気のある整形外科で、当時1日に600人近くの患者様が押し寄せていました。

勤務場所だったリハビリ室では、当初先輩から専門用語で指示や質問が浴びせられましたが、全く理解できませんでした。学校でも授業が全くわからず1年生の時はかなりの劣等生でした。

当時はありがたいことに先輩が朝の勉強会を開催してくれていたので、毎朝7時には勤務が始まり、8時30分から朝の申し送り、12時過ぎまでリハビリ室で働き、急いで昼食を取り、13時から16時まで専門学校で授業を受け、16時30分頃から21時くらいまで病院に戻って働き、そして仕事が終わってから簡単に夕食を取り、その後さらに仕事で使用する整形外科学の勉強や、朝の勉強会の予習などを行い、日付をまたぐこともしばしばで後は帰宅してそのまま寝てしまい、あっという間に朝を迎えるという生活でした。

仕事についていくために勉強しないといけない環境で、正直学校の勉強をする隙がないほど、本や文献を読んでいました。整形外科勤務の5年間は勉強しまくっていたと自分ながら思います。

そうこうしているうちに自然と先輩の言っていることが理解できて、仕事上の会話もできるようになり、学校の勉強もそれほど苦ではなくなってきました。そのまま院長先生、良き先輩、同期に囲まれて5年間務めさせていただきました。この5年は自分の治療家としての基礎となっており、最初に古東整形外科にお世話になったことを今でも感謝しています。特に柔道整復師としての本業である、骨折、脱臼、捻挫、スポーツによる怪我、障害はもちろん、整形外科学の基礎から応用まで幅広く学ぶことができたことは大きな財産となっています。そして無事に国家資格を取り治療家としての第一歩を歩み出すことができました。

実は古東整形外科を退職した原因は体調不良でした。
4年目ぐらいから両足の痛みに悩まされていました。両方の土踏まずが痛くなり、足が夜になるとほてったように辛くなります。当然病院ですので、院長先生や先輩にもみてもらいましたが画像上の問題はなく、異常な所見はなかったため放置していました。

そこから半年ほど経った頃に再度院長先生に相談し血液検査を行うと、「抗核抗体(こうかくこうたい)」という数値が異常に高いとわかりました。抗核抗体異常は基本的には膠原病(こうげんびょう)を疑うのですが、この数値の高さが意味するところ、それは「慢性関節リウマチ」の可能性が高いということでした。院長先生からは大学病院で足の外科の先生を紹介するので、そこで一度診てもらいなさいと言われました。

紹介状をもらい病院受診し担当の先生とお話をして、ひととおりの検査をして再度問診。そこで、

「血液検査の値からもリウマチの初期の可能性が高いですね」
「扁平足の影響で痛みが出ている可能性もあるので、インソール(中敷き)を作って様子を見ましょう」

と。

かなりショックでした。その当時リウマチは症状を遅らせることはできても完治はしないと言われていました。帰りの電車で「これからどうなるんかな?」と考えていたことは覚えていますが、ショックで記憶が曖昧であまり詳しく覚えていません。
今思えば、リウマチの疑いがあれば早期に薬を処方さえているはずですので、リウマチの疑いとは言われたものの、先生はリウマチだとは思っていなかったのだと思います。

受診後、インソールを作って仕事に戻りましたが、症状は変わらずで、つらい日々は続きます。結局無理を言って丸5年で古東整形外科は退職させて頂きました。

まだ鍼灸学科の学生でしたので、半年ほど学校のみ通学していました。当時は夜間部でしたので、非常にゆっくりと1日を過ごして夜学校に行く感じです。学校のみの非常に楽な期間を過ごしていると、何故か足の痛み、夜間のほてる症状も収まり、特に問題はなくなってきました。

この当時は全く理解できなかったのですが、退職してから数年後当時の同僚の看護師さんから言われた一言で理解できました。

その一言は「目に力が戻ったね、あの時魚の死んだ目みたいになっていたよ!」

そうなんです。診断は下っていないので確証はないですが、その当時の私は「うつ病」だったと思います。

足の痛みも、ほてりも「うつ病」が原因の症状だったと考えるのが妥当です。確かに画像に何も映らず、血液検査に少し引っかかりましたが現在は何もありません。当時整形外科にお世話になり4年目、最初のダメダメぶりからすると普通に仕事ができるようになり、後輩に指導する立場にもなっていました。

私は何の免許もないままこの業界に入ったため柔道整復師、鍼灸師の3つ(鍼灸師=はり師ときゅう師の2つの免許のこと)を取得するには、働きながらだと6年間が必要です。

3年間努めて柔道整復師の国家資格を取得しましたが、同期はすでに鍼灸師を取得して入職していたため、同時期に専門学校は卒業。私と違い常勤かつフルタイム勤務に変わリます。当然お金も時間も余裕がでてきます。

一方私は、夜間の鍼灸学科に進学したため同じ様に仕事、学校です。また後輩も4年目には常勤に変わりました、指導している彼らが休みも給料も多くもらっている。完全に嫉妬です。同期、後輩にそのことを漏らしたことは記憶にないので(もしかすると言っていたかもしれませんが)、みなこのことには気づいていないと思います。

その当時は資格もない私を拾ってもらい働かせてもらっている。
学生なんだから、休みもなく、給料も安くて当然だと思っていました。

しかし先に書いたように同期、後輩に抜かれていくことに嫉妬していたのだと思います。また大学を卒業して4年、地元、大学の友人は職場でバリバリ働き、結婚する人も出てきたのに自分はまだ学生、そんな焦りもあったのかもしれません。

頭では仕方ないと思っていても、そうじゃないと思う2人が自分の中にいたため、結果「うつ病」になり足の症状が出たと思います。かなり甘えた気持ちで生活していたことが、今となっては恥ずかしい限りです。
しかしこの体験は、後に私の治療家人生の中で大きな意味を持つことになります。

そうこうするうちに半年ほどで症状は回復して、そろそろ仕事をしたいなと考えていたところ、古東整形外科時代の先輩から連絡がありました。その先輩はもうすでに開業されており、「(先輩の)昼の休憩時間に治療をしないか?」というお誘いでした。あんな辞め方をした私にこんなお誘いがあることはありがたいことです。

お誘いを受けお世話になることになり、お昼から学校に行くまでの3時間ほど私の枠を作っていただき治療をさせていただきました。1日に働く時間が短かかったため、まだ少し身体に不安のある私にとっては最高の環境でした。そのような生活を半年ほど続け、鍼灸の国家試験が迫ったある日、古東整形のOB会が開催されると聞き、勤務先の先輩とともに出かけました。

そこには就職当時1年目に朝の勉強会を開いてくれていた高原先生もおられました。
私は当時勉強会にも遅刻すること度々、よく怒られていたため高原先生にお会いすると緊張します。なのに、そこでなぜか「鍼灸の資格を取得した後高原先生の院で働かせて欲しい」とお願いしていました。高原先生も当然あまり印象の良くない私を雇おうなど考えないと思っていましたが、「一度院に見学にきたら?」と言っていただき、後日院にうかがい、その日その場で就職が決まりました。

その後鍼灸師の試験も無事合格して、柔道整復師、はり師、きゅう師、3つの国家資格を保持することとなりました。
この高原鍼灸整骨院での勤務経験が、私の治療家としての方向性を決定づけたと言っても過言では無いものとなりました。

アスリートへの治療とトレーナー経験そして経営

これまでは整形外科、整骨院ではパートタイム勤務でしたので、治療院で朝から晩までフルタイムの勤務は初めての経験です。
同期の3人とともに、雑用から新たに仕事を覚えていく事が非常に新鮮に感じました。3人は以前の私と同じように専門学校に行きながらの勤務ですが、勤務時間も長かったので大変だったかと思います。

このように働きつつ1年が経った頃、院が移転することになりました。
以前からサッカー、野球等のスポーツ選手の来院が多い整骨院でしたが、移転先は1階治療所、2階スポーツジム、3階多目的スペースと事務所という大きな建物。本格的にスポーツ選手に対する治療、トレーニングを開始していきました。当時、院で全日本女子バレーのトレーナーをしていた関係上、院長は遠征に帯同することが多く、院の管理、遠征と非常にパワフルに動かれていました。

学生時代に運動経験はありますが、決してトップ選手ではなかった自分がトレーナーをするとは考えていませんでしたが、3年目には全日本ホッケー女子チームへのメディカルトレーナー(治療やケアが中心)として1年間、国内だけでなく、海外遠征にも帯同させていただきました。ギリギリの環境、状況で頑張っている選手の気迫に負けない様なトレーナー活動を心がけていましたが、今思えばいたらない点が多々あったかと思います。しかし、院の外での活動が主体のこの1年間はかけがえの無いものとなりました。

さらに、その同じ年には副院長に任命され(とは言え1年目はトレーナー活動で遠征帯同のため院には半分もいませんでしたが)院長の片腕としての仕事もさせてもらうことになりました。
この当時アスリート鍼灸整骨院(髙原鍼灸整骨院から改名)にはスタッフ約15名。来院患者数は、多い時で1日200名を超えていました。一般の方からスポーツをする学生、プロ選手まで幅広い層が来院されていました。2階のジムも怪我から復帰を目指す学生や純粋にトレーニングのために通う方まで多くの人が来られていました。

その後院は、完全にスポーツ選手層のみに特化した院へと生まれ変わりました。午前中は診療せず、お昼から夜遅くまで受付を行う治療院へと再度生まれ変わったのです。「遅くまでクラブ活動で頑張る学生が来やすい院」がコンセプトでした。

そこは「より良く、より早く」を念頭に治療から早期のリハビリ、全身への調整、さらに競技復帰のためのトレーニングまでトータルケアを実践できる院でした。高齢者や、一般の方は離れる方もいましたが学生アスリートからの支持は厚いものでした。

院長がアクティブなため同じような1年を過ごすことがなかったのですが、私にとっての一番の経験が3年間院長を努めたことでした。これは髙原院長が留学のため海外に行かれるタイミングで、私が院長として3年間院を率いるというものでした。多くのスタッフを束ねて院の経営も行うことは大きなプレッシャーとなり、院のスタイルを受け継ぎつつ自分の色を出して行くことは、想像以上の困難を伴いました。

副院長とはいえ、これまでいちスタッフであった私がトップに立ち、院の舵取りをすることに対して当然反発がありました。私も人を率いて導くということを理解していなかったこともあり、スタッフへ強い口調で接したり、行動を強制したりしてしまうこともありました。そのため多くの仲間が院を去っていくこととなりました。(今では良いおつきあいをさせていただいています)

その後新たに入ったスタッフの協力のもと、少しずつ理想の院構築に向けて努力を行い、治療、トレーナー活動、更に院の経営を行う約束をしっかり3年間努めることができたと思います。

またこの時期、これまで勉強していた事以外の治療法や、考え方を勉強する機会が増えていきました。
これまでは整形外科学と、それに付随したスポーツ医学に軸をおいて治療を行ってきましたが、ある疑問が湧いてきたのです。

世の中には多種多様な治療法、考え方がある。たとえば全く逆の方法、考え方の場合もあるのに、なんですべてそれなりに良くなるのだろうか?と。

これまでもいろいろな治療法があるのは知っていました。しかし今までは自分のベースとなった、あれだけ苦労して勉強した整形外科学を否定するような考えを学ぶのが怖かったのだと思います。その当時はこれまでの方法に限界を感じていた頃でもあり、この方向に行くことは必然だったとのでしょう。

症状ではなく患者様を診る、そのことを改めて考えるようになり、さらにこれまでの方法とは違う考え、治療法などの本を読みふけり、講習会などにも参加しました。新しい視点が加わり日々新たな発見があり、さらに治療することが面白くなってきた頃でした。その後約束の3年が過ぎ、40歳で帰潟を決めていたこと、新たに後輩が院を引き継ぐことが決まるなどタイミングが揃ったため、大きな自信を携えて新潟に帰ってくることができました。

新潟に帰郷、そして開業へ

約20年ぶりの新潟での生活、父である坂爪整骨院院長のもと副院長として働き始めました。
地域の方々にも帰郷を喜んでいただき、これまでは帰省の際にしか関わりがなかった町内の活動のもかかわらせていただくことが増えました。

実家の整骨院は開業50年(2018年現在)を超え、整骨院の本業である「外傷治療」を受けるべく、怪我をされた患者様も多く来院されていました。
大阪修行時代に学んだ「より良く、より早く」を実践しつつ、新しく学んだ治療法も取り入れ治療に当たっておりましたが、現在の整骨院をとりまく保険制度の中では、「私が思う理想の治療ができていないのではないか」と思うようになりました。

現在、健康保険の取扱はあくまで怪我の治療のみです。痛みのある部分のみが適応になります。

しかし怪我の治療においても、怪我をした部位への治療はもちろんの事、そこに関連する部位も含めた全身への治療、働きかけが「より良く、より早く」治るためには必要不可欠ですが健康保険では認められていません。

また、現在社会問題化している慢性的な痛みで悩まれている患者様への治療も、健康保険では同様に認められていません。

更には自分も原因不明と言われた痛みで悩んだ経験があります。あの時の不安感は尋常ではありませんでした。画像、血液などの検査で明らかにならないけど、痛みや症状が持続してお困りの方は多いと思います。

私の場合は精神的な問題が大きな割合を占めており、全てを精神的な問題にするつもりもありませんが、痛みで悩んだ経験からお伝えできる事もあるかと思います。
事実、慢性的な痛みは精神的影響が大きいと現在言われています。この様な経験も保険の枠内ではお伝えできない。ごく限定した症状の患者様にしか保険を適応しての治療は提供できないのです。

さらに保険で治療することは私の持つ治療技術に制限をかけてしまうことになってしまいます。正しく保険の枠内で治療を行うことが患者様の不利益になってしまうのです。このような現状で「この治療をしたらもっと良いのに」「このお話を伝えられたらより改善するのだけどな」という葛藤が湧いてきました。

しかし、

「実家を継ぐために新潟に帰ってきたのではないか?」
「このまま親子で整骨院を経営して仲良くやっていくことが最善なのじゃないのか?」

そう思い、自分の理想をあきらめていた時もあり、思い悩む日々が続きました。
しかし、昭和の時代であれば保険を使い多くの方を治療するやり方、それが当然の方法だったのですが、21世紀の新しい患者様に向けては症状だけを追わず、その方の姿勢、生活、全てに対してのサポートを行う治療、その様な治療を提供していかなければならない使命が私にはあると気づいたのです。

「どこに行っても良くならない」
「全然話を聞いてくれない」
「治らないと言われている」

不安を抱える患者様の体が「より良く、より早く」治るお手伝いをさせていただくべく、秋葉区美善の地に、坂爪整骨院の分院として完全予約制、自費治療専門の院を立ち上げた次第です。

地域の皆様の健康に寄与できるよう努力してまいります。今後共何卒よろしくお願い申し上げます。

さかつめ整骨院 鍼灸院
院長 坂爪 慶

(柔道整復師・鍼灸師 坂爪慶 監修)

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